「自分の皮膚で触れた部分が世界なんですよ。」
これは伊坂幸太郎さんの小説『砂漠』の中で西嶋という人物が発するセリフ。
ここから話が広がるかと思いきや、
いい言葉だなあと思うので、書いてみたかっただけ。
नमस्कार 西垣です。
いや、何語?
さて、「インドで感じたこと」をテーマに書けとのことでしたので、
今回は9月と3月の2度のインド、計1か月半の滞在で感じたこと、
つまり、僕が僕の皮膚で触れた部分についてのお話です。
2回目のインドということで、雰囲気はなんとなく覚えていました。
デリーの空港から、外に一歩出ると感じる新鮮とは言い難い生ぬるい空気、軽く言葉を交わした後、気ままに歌いだす運転手。3車線の道路には5台の車が並び、その道はメインバザールへ向かうにつれ、もはやあいさつ代わりのクラクションと男どもの叫び声の混ざった話し声でだんだんとうるさくなっていく。
2週間前に納車したばかりだというおニューのタクシーの後部座席で20歳の西垣青年は考えていました。
「やっと戻ってきたなあ」と。
いや、たかが2回目ですけど!!!
たかが2回目、されど2回目。
2回目は、初めてインドに来た時よりも広い視野でインドを見られた気がした。
たとえば、
街中を歩いていると、リキシャに乗らないか、と何度も声をかけてくるインド人。
くどいなあと思いながらも、
1回目は、「これがインドのノリか!」と素直に?楽しんでいました。
それが2回目には、
「乗らねえって言ってんだろ、どっか行けや!!」
いや、反応変わりすぎ!!!
こんな感じでふざけていこうと思っているわけですが、決してふざけているわけではありません。
いや、どっち?!
このリキシャの例に、僕の感じたことが表れています。
1回目は僕の目に映るものを、無意識に日本との違いというレンズで見ていました。
家、衣服、お腹いっぱいになるだけの食べ物、日本にはあるものがない。
(もちろん日本でもないこともあって、それも大きな問題だとは思う)
ドラッグ、物乞い、駅での暮らし、日本にはない光景がある。
リキシャの例なら、日本でくどいタクシー運転手を見たことないから、くどいノリを楽しめた。
つまり、
僕が見ていたのは、日本ありきのインドだったのではないか、と。
今振り返ればそう思う。
いや、急にまじめ!!
と、ツッコミを入れられましたか?
入れられたみなさん、さすがです。
入れられなかったみなさん、修行が足りないようですね。
話を戻して、じゃあ2回目は?といいますと、
インドをインドとして楽しめたのかな、と。
リキシャの例に当てはめると、値引きの場面。
日本ならメーターだよな。相場はどのくらいかな。どうしたらスムーズにいくかな。
とか考えず、まずはその値引きをしてみた。
他にも、トイレに入れば、小さいバケツにためた水と己の左手を使ってケツを拭く。地元民が使うようなレストランで注文したら、スプーンある?なんて聞かず、手で食べる。話がまとまったら、YES!とか言わず、首を斜めに傾ける。炭酸飲料を飲みたくなったら、コカ・コーラじゃなくてサムズアップ。
こんな感じでまさにインドに染まりにいきました。
いや、もうインド人ですやん!!!
効率よくとか、損しないようにとか、どれがお腹にやさしいかとか、深く考えるよりも、
とにかく、五感でインドを感じる!!!
(※その結果、寝起きでリキシャに乗ってぼったくられ、暴飲暴食で腹を痛め、ノリで決行したヒッチハイクではあえなくビールをおごらされそうに)
インドに、自分の皮膚で触れる。
これが一番大事なんじゃないかな、と。
そう、、、
なぜならば、そこがインドだから。
もう少し話を広げると、
国際協力とか、開発援助とかいったことを考えると、どうしても課題に目が行く。
安心して住める家がない、通う学校がない、きれいな水がない、近くに病院がない。
「ない」ことばかりに注目してしまうけれど、
それは「ある」ことを知っているから。
「ない」状況で生活している人たちはどう感じているのか?
その感覚を知るには、その土地にどれだけ触れられるかじゃないかなあ、と。
「自分たちにとっての当たり前が、途上国では当たり前じゃない」
よく聞くセリフだけど、その逆は見落としがちな気がする。
「ない」のが当たり前な状況の中で、本当にすべきことは何か?
今ある暮らしを壊すかもしれない。
それでもすべきことがあるか?
国際協力に絶対の正解がないとするならば、
1つ1つの事例の中で、より良いものを探していくしかない。
そのスタートは、現地に自分の皮膚で触れることじゃないかな、と。
触れるときは優しく、
「優しく触れていいですか?」
いや、エリエール!!
ブログでこんなにふざけるなんてありえない?
いや、アリエールでしょ!!
インドに限らず、見知らぬ土地に行けば、少なからず“非日常”を感じるのでは。
でも、僕にとってのその“非日常”は、そこに住まう人にとっての“日常”
非日常を日常に感じられてこそ、現地の声に耳を傾けること、心に寄り添うことができるのではないか、と。
インドをインドとして感じられてこそ、何をするかが見えてくるのではないか、と。
くだらないおもちゃの押し売り、10倍くらいの値段でのぼったくり、メトロのチケットを買う列には並ばない、どこのレストランも全部スパイスで味付け、宿には虫、、、
もちろん腹が立つことも多いインド。
SPにとっては、そこが国際協力の現場。
「自分の皮膚で触れた部分が世界なんですよ。」
このブログを読み終えたあなたは、インドに、現場に、行きたくてうずうず、、、
いや、してねえよ!!!
とはツッコミを入れていないことを願います。
コメントをお書きください